ブエノスアイレスの夏 江見 浩一(CARS幹事)
夏に聴きたい音楽といえば、もちろん人それぞれです。でも、今年の夏にはこの曲は外せません。「ブエノスアイレスの夏」です。作曲者は、アストル・ピアソラ。イタリア人移民三世の子としてアルゼンチンに生まれ、アルゼンチン・タンゴにクラシックやジャズの技法を取り入れた曲を数多く世に残した作曲家です。「リベル・タンゴ」や「アディオス・ノニーノ」などの曲が有名です。一方で、タンゴの伝統の亜流であるとの見方から、タンゴの革命児とかタンゴの破壊者と呼ばれたこともあったようです。
今年は、ピアソラの没後25年の節目の年。ピアソラの作品を演奏するイベントや演奏会が多く開催されています。私も先日、イタリアの室内楽団と日本の著名なバンドネオン奏者の共演を聴きに行きました。バンドネオンとは、主にタンゴで使われるアコーディオンの一種であり、蛇腹の両端にボタン式の鍵盤が取り付けられている楽器です。悲しげに絞り出す人の声のような音を出します。ピアソラ自身も卓越したバンドネオン奏者でした。
この演奏会で聴いた「ブエノスアイレスの夏」では、録音の音源とは異なり、曲の持っている熱のようなものをダイレクトに感じることができました。アルゼンチン・タンゴの情熱的なリズムにバンドネオンの悲しげな音が乗ってくると、やり場のない切なさが込み上げると同時に、異国に誘われるような気分になってきます。この場合の「異国」とは、アルゼンチンやタンゴの発祥地とされるイベリア半島の国など特定の国ではありません。どこでもない場所に連れて行かれるのです。この感覚を想起させるのはピアソラの音楽の魅力の一つかもしれません。これはピアソラが異文化の共存する街ニューヨークで育ったこととも無関係ではないでしょう。
ピアソラの音楽は、様々な演奏家によって演奏され続けています。特にクラシック音楽の演奏家の間で取り上げられることが多いと思います。これは、几帳面であったピアソラがわかりやすい楽譜を残したことと無関係ではないようです。酒場の音楽であったタンゴにおいて多くの曲の楽譜が残されていないのに対して、異端児と呼ばれたピアソラの曲の楽譜が多く残されている。少し皮肉にも感じます。でも、楽譜の継承が音楽文化を支えていることを示す好例と考えることもできそうです。今やピアソラは、異端児でも破壊者でもなく、アルゼンチン・タンゴを代表する存在となってきています。楽譜の持つ力の大きさを改めて感じます。