[ブログ] 楽譜de散歩
2021.02.01 著作者や作品などの紹介

歓喜の歌  江見 浩一(CARS幹事)

【執筆者】江見 浩一(CARS幹事)

 1918年6月1日、第九が日本で初めて演奏されました。第一次世界大戦中であり、スペイン風邪が猛威を振るった年です。第九とは、ベートーベンが1824年に作曲した交響曲第9番のことであり、特に第四楽章には混声合唱が加わることから合唱付きとも呼ばれている曲です。年末の恒例行事として全国各地の演奏会で演奏されているので多くの方がご存じだと思います。

 第九が日本で最初に演奏されたのは、現在の徳島県鳴門市にあった板東俘虜(捕虜)収容所であるとされています。この収容所は、第一次世界大戦における戦闘で日本軍の捕虜となったドイツ兵約5000人を日本各地に分散して収容していた施設の一つです。ここでは、異例なことに、捕虜に対してある程度自由な生活を許していたばかりではなく、国が科学技術の進んだドイツからあらゆる分野の技術を導入するため、生産労働や文化活動さえも許容していました。実際、現地の日本人は、捕虜を「ドイツさん」と親しみを込めて呼び、多くの技術を学んでいたようです。当時のドイツ兵には、職業軍人が少なく、専門性を持った職人が多かったことが背景にあるようです。

 この収容所には、建築、土木、政治・経済、蒸留酒やパン作りなど、さまざまな専門家がいましたが、その中に軍楽隊の指揮者もいたため、その指揮者の下に「徳島オーケストラ」という名前のオーケストラが結成されました。徳島オーケストラは、収容所内で定期的に演奏会を催しており、第九もその一つとして、1918年に演奏されたわけです。ただ、当時の日本ではファゴットが入手できず、オルガンで代用したり、捕虜には女性がいなかったため、女声パートを男声用に編曲するなど苦労も多かったようです。そんな苦労の末に生まれた音楽がどのような音色であったのか、そして阿波踊りの本場ともいえる現地の人たちの耳にどのように届いていたのか、とても興味をかきたてられます。

 奇しくも同じ年には、ドイツ本国のライプツィヒという都市で、大晦日に第九を演奏するという習慣が始まります。ライプツィヒは詩人で劇作家のシラーが第九の合唱の原詞を書いた場所ですので、そんなつながりがあったのでしょう。やがて、その習慣が第二次世界大戦後の日本にも伝わり、年末に第九という恒例行事が生まれたということのようです。年末に第九の伝統をさかのぼると、1918年に突き当たるというのは面白い偶然です。

 一方、同じ年に流行が始まったスペイン風邪は、春には日本に上陸し、翌年まで続く第一波では、国民の3分の1以上が罹患し、多くの死者が出ています。板東俘虜収容所でも3人の犠牲者を出したとの記録が残っています。当時は、国際的な交流が盛んになり始めた時代でしたし、戦時下で軍隊が海を渡って移動することが多かったため、感染症が瞬く間に世界に広がったのだと考えられています。国際交流が文化を伝播させるのと同時に、感染症も拡大させたというのは、皮肉なことです。国際交流の光と影なのかもしれません。

 そして、現在、パンデミックという影が再び世界を覆っています。これによって年末に第九の伝統も大きな影響を受け、昨年末には合唱の歌声を聴く機会はほとんどありませんでした。しかし、スペイン風邪が流行したのは、1918年から1921年までの僅か3年間です。一方、年末に第九の伝統は、100年間以上にも渡って続いていますし、今後も絶えることは考えられません。その意味で、感染症が文化に勝ることはないと言っていいと思います。

 第九の第四楽章は、別名「歓喜の歌」。今年の年末には、光が世界を再び照らし、高らかと歓喜の合唱が響いていることを願わずにはいられません。