[ブログ] 楽譜de散歩
2022.05.12 音楽と社会

青春時代の1コマ  下條 俊幸(日本楽譜出版協会 理事長)

【執筆者】下條 俊幸(日本楽譜出版協会 理事長)

今年は、日本と中国との国交が正常化となって50年の節目の年を迎える。

今回は、私の50年前のまさに青春時代の一コマを紹介することにしたい。

国交正常化となった1972年は、高校に入学する前年である。中学時代は吹奏楽に没頭し、学生の本分である勉強は二の次、三の次。高校進学に当たり、20名そこそこの、何とも頼りない合奏しか経験した事のない私は、もっと奥深く、編成が大きくダイナミックな演奏を体感したいと云う、素人の極めて単純で乱暴な発想で、名古屋市にある高校を選び、入学するのであるが。不思議なことに、必ずしも「単純で乱暴」な選択ではなかったようで、その時、第6感が働いたのか、インスピレーションを受けたのか、結果的には、貴重でかけがいのない高校生活を送ることになるのである。ひょっとしたら、高校時代の本格的な音楽活動が今に繋がっているのかもしれない。

入学した年には、たまたま地元の名古屋で開催された吹奏楽コンクールで、創部以来二度目の全国出場を果たし、朝一番の出番でコンディションに不安があるにもかかわらず、金賞を受賞。1年前までは片田舎のポンコツバンドのラッパ好きが、高校に入っていきなり全国の金賞メンバーとは、生意気盛りの自分でも、幸運にも程があるとさえ思ったものだ。その後、全国の常連校となるなど、半世紀が経過した今でも、顧問は変わっても母校の活躍は続いており、OBとしては何とも嬉しい限りである。

そんな得意気な懐古は置き、冒頭の中国に関係する話に戻すことにする。

その高校は学園全体で、中国とのかかわりが深く、1971年の俗に云う「ピンポン外交」の立役者であり、我が学園長であったのが後藤鉀二先生。(残念ながら私が入学する前年にお亡くなりになるのだが)

因みにピンポン外交とは、1971年名古屋で開催された世界卓球選手権大会において、文化大革命以降、制限されていた中国選手の世界大会への参加が初めて実現し、それがきっかけとなって、朝鮮戦争後の米国との緊張関係が緩和し、日本との国交正常化にも繋がった出来事。

その後、卓球大会に限らず名古屋地域で開催される日中親善スポーツ大会において、学園長と中国との縁もあって、必ずと言っていいほど、開会式の式典演奏を我が吹奏楽部が仰せつかるのである。そのため高校時代の3年間、数えきれないくらい、中国の国歌(義勇軍進行曲)と当時の中国では式典等で頻繁に演奏された「歓迎行進曲」を演奏する訳だが、その中国国歌、ファンファーレ調で始まるトランペット奏者にとって、極めて吹き応えのある、勇ましい曲で、何回吹いても飽きない、私にとっての名曲の一つである。半世紀たった今でも、その吹奏感は身体に染みついており、運指も明確に覚えている。

そういった背景の中、吹奏楽部の我が恩師、松井郁雄先生が、学園職員としての責任感が働いたのか、中国との文化的な交流を求め、中国中央楽団 集団創作(いかにも文化大革命の時代らしい)楽曲である、ピアノ協奏曲「黄河」を、吹奏楽曲に自ら編曲、当校ならではのレパートリーにしようと画策するわけだが、その後の松井先生の行動力が凄い!

1974年のこと、確か未完成であったにも関わらず、集団創作者である中国中央楽団の公演が、たまたま名古屋であった際、その手書きのアレンジ譜を携え、私を含む数名の生徒を引き連れ、松井先生自ら、その公演の指揮者であった李徳論氏の楽屋へゲリラ訪問、いきなり談判を始めるのだ。細かい記憶は曖昧だが、李先生含め、楽屋にいらっしゃった数名の楽団関係者から大きな喝采を受けたことは今でも覚えている。返礼ということではないだろうが、当時中国で人気の高かった演目である、歌劇「白毛女」の管弦楽版フルスコアをプレゼントされた。公演会場であった名古屋市民会館を後にした時、何が何だか分からない私たちを尻目に、松井先生の高揚感で極まった様子は、今でも鮮明に私の記憶に残っている。

翌日から通常の練習に加え、その際中央楽団メンバーから指導を受けた「黄河」の編曲とオーケストレーションの修正にバンド全員が付き合わされることになる。3年生を迎えた頃に完成するのだが、何と楽屋訪問が契機となり、翌年の1976年3月、中国政府の招待で、吹奏楽版「黄河」と「白毛女」をメインプログラムとして中国への親善演奏旅行が実現することになるのである。すでに国交は回復しているものの、中国では文化大革命の中、観光目的の自由な旅行は困難な時代である。訪中先は北京と上海。それぞれ3回ほどの公演に加え、外国との交流が極端に少ない時代だったが故、全ての公演のゲネプロにも観客を入れ、合計で10公演ほど演奏することになる。滞在中は、親善使節として人民公社、少年宮などの施設、故宮、万里の長城などの史跡、上海では近代建造物(確か上海体育館)、化学工場などを見学し、その歴史とともに近代化を推進する迫力ある中国を堪能した。公演だけでなく数多く訪問した施設など、所々で受けたまさに中国の方たちの「熱烈歓迎」も、私の思い出深い青春時代の1コマである。

ついでながら、出来事のインパクトとカルチャーショック、殊の外中国に影響を受けた私は、その後大学に進学した折、第2外国語に中国語を選択するまでは良いのだが、入学後すぐに管弦楽団に入団し、吹奏楽とは違う、さらに奥行きのある演奏スタイルにはまって益々熱中することになる。当然、学校の講義はそっちのけ、結局中国語は全く身に付いていないのは何とも情けない限りである。

50年経過した今になって思うことは、権利に対する意識もその水準も恐らく発展途上の時代。中国の代表的な楽曲を自ら編曲し、創作者のもとにアポイントもなく訪問した松井先生の本心が気になって仕方がない。編曲の事後承諾なのか、あるいは演奏利用への許諾目的であったのか、編曲上での指導を仰ぐためだったのか、文化交流への自己主張?はたまた緻密な大人の計算があったのか。

松井先生が、すでにお亡くなりになり17年経った今、もう誰も分からない。不良生徒の私に付き合ってもらえるか甚だ不安ではあるが、夢の中ででも、先生と酒を酌み交わしながらその本音を聞きたいものだ。

そしてCARSのメンバーを代表して「さすが!マッツァン!」と大きな声で応えたい。