コピーあれこれ(その29) 末吉 保雄(CARS幹事/作曲家)
いわゆる「情報の電子化」の急速な進展は、人々の生活の様々な面の、見通すことなど出来ぬ広さに亙って、なおとどまることがありません。
音楽活動もまた、例外ではなく、これまで、この記事でも観察してきたように、音楽の生産、伝達と受容の、様々な局面でまさに革命的な変化が続いています。
それがもたらすところ、その流れの行き着くところ、たぶん、これまでの「音楽」の仕方の、相当に多くの部分は変わってゆくはずです。善し悪し、好む好まざるは別として。
新しく音楽を生み出す現場での「楽譜」の役割も後退しているようです。これまで再三書いてきたように楽譜を書かない作、編曲家が、すでに、普通に存在します。
キーボード上で「音」を創って、電子信号として送り出し、受けた方はそれを加工(音色、時間etc.)しつつ「発音」し、それらは電子信号として保存される…。このやりとりに、「五線譜」は、必要無いわけです。
もともと、楽譜は、音の生産現場が、それを再生産するための便宜として用い始めたものでしょう。「五線譜」は、楽譜の歴史が作り出した様々な形態の、ひとつにすぎませんが、それなりに、これまで、その非常に高い利便性が評価されてきました。
現在、これを、多数の人々が「読む」ことをします。これからも、少なからぬ演奏者がそうするでしょうし、それをしないと、演奏できない、あるいは学べないといった場合が多々有るはずです。つまり、急に、楽譜そのものが用いられなくなることは考えられません。紙に書くかどうかはともかく、五線譜を書きながら作曲する人も、存続はするでしょう。
そうとは言いながら、これまで、「原譜」の書き手が、音の創り手(側)だったことを思います。「写譜」は、つまりコピーは、原譜とその「書き手」の存在無くしては成り立ちません。
それで、現在、この「音の創り手」たちのなかで、しだいに「楽譜」を書かずに「音を創る」仕方が進んでゆくのだとしたら…(「書く」としても、自分でなく、「音を出すと、楽譜に変換」してくれるソフトの方だったり)…これは、作曲という行為のなかで「楽譜を書く」という作業の役割が後退しつつある…と理解すべきでしょうか?
すくなくとも、量的には、そうだろうと思います。音楽は、いつも、人のもの、人の変化につれて変わるものですから、「楽譜」との関係も、当然変わってくるでしょう。
ただ、すこし心配になります。すでに楽譜を書いて作曲している人たちはともかく、これから作曲、編曲ということをしてみようという人たちが、楽譜を多く書くことなく、あるいは、書くことを通じて音楽を考える比重を減らしてゆくことが無いでしょうか?
創り手にとって、「楽譜」の役割は、単に「作り出した音」を記録するというにとどまりません。「楽譜」は、音楽を思考する道具のひとつです。たとえば、このフレーズとあのフレーズが、どう違うのか、それぞれと、その違いを認識し、比較し、そのフレーズから形成される音楽全体との関係といった事柄を考察するのは、もっぱら楽譜を、書き、読み取りつつ行います。
書く訓練を積み重ねることなく、思考を深めてゆくことが出来るでしょうか?(続く)