コピーあれこれ(その30) 末吉 保雄(CARS幹事/作曲家)
音を楽譜に書きつける、そのことの訓練を積み重ねることなく、音や音楽についての思考を深めてゆくことが出来るだろうか?
ずっと、そのことを考えています。音や音楽についての考えを深めるには、勿論様々な仕方が有って、楽譜を書かなくとも、楽譜を用いなくてもそれは出来るし、その仕方は、創造的に更に新しくされてゆくべきことだろうとは思います。
いま「創作」の場を考えようとしていますが、「創作」であればこそ、その手法、技法、その適不適の検討作業もまた、前例の無い新しさを持つことが有るはずです。
創作の場では、知られていなかったこと、これまでに無かったことの登場が待たれています。しかし、その分、受け取る方に未知の、理解出来ない事も加わります。
それで…何もかもが新しく、まったく未知の音楽が出現したら…たぶんそれは、それが何かを理解できる人がいない…ということにもなるでしょう。そう。100%新しい音楽は、不可能だし、想像もできません。
音楽は、人のものだから、人とともに変わってゆく。それにつれて、音楽に関わる様ざまも変わってゆく。刻々と、少しずつ、たぶん人類の生活史の長さにわたって、今日の在り様に至ったことでしょう。
これまでに、人は、長い、長い時間のなかで、音や音楽を、受け継いでは変え、またそれを次へ伝えてきました。これからも、これは必然と説くべきなのか、そうしたいものだと…次代に願うのか…たぶん、人間が続いてゆくなら、音楽だけが一新されたり、無くなってしまうということもなく、これまでのように続いてゆくと考えておきます。
さてそこで…、楽譜を書くことについての今日の私の課題も、ここから自ずとひとつの前提に立つことが可能になります。
まずは、そのことの有効性を無期限、無限定と主張したりはしないこと。その上で、大切なことは、楽譜を書くことの重要性、その訓練の必要性を説くこと、何よりもそのことじたいを次代に伝えること…、それを音楽家としての自分の義務と自覚する…それが必要だとあらためて思いました。
まあこれまでもそう思って、些かをしてはきましたが心配はつのるばかりです。言うまでも無く、世の大勢は、つまり、その方向と別な方に進んでいる事が明白だからです。音楽のなかでの楽譜の一般性も、また、新しい音楽作品の創作にさいしての(楽譜の)役割も、後退しています。たびたび言うように、それにも理由はあることで、一概に、嘆いたり、咎めたりするつもりは有りません。
でも思います。厳格対位法とか、和声法の多声楽曲的への展開、応用などの訓練は、これはもう、しっかり五線譜に書く事なくできるはずはないし(これをアカデミックな学習とのみとらえないでください)、そのような訓練の不足なままでは、なかなか、自作を精確に五線譜に書く、つまり、音や音楽の展開を客観する作業は不十分にとどまってしまう…それは間違いない。
そして、だいぶ考えてきましたが、ここで言う「書く」は、紙の上に、鉛筆と消しゴムを使ってやるのが一番です。理由を、次回に書きます。