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第4回 小林仁さん~演奏者の立場から~

第4回 小林仁さん~演奏者の立場から~

クラブ活動や音楽サークルなどで、今、楽譜がどのように利用されているか、また楽譜の無断コピーを防止するにはどのようにしたら良いかなどを、楽団・合唱団を指導する先生方や関係者の方々、楽譜出版・販売事業に携わるスタッフに尋ねるコーナー。第4回は、小林仁 日本ピアノ教育連盟会長を迎えてお話を伺いました。

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小森:小林先生はピアニストとしても、ピアノ教育者としても大変ご高名でいらっしゃいますが、当然楽譜をお使いになる立場で、楽譜に対する思いやご要望をお持ちだと思います。今日はそのあたりをいろいろとお聞かせいただきたいと思っています。

~戦後の何もないところから見様見真似で音楽をはじめた、というのは、私たちは共通していますね。~(小林)

小森:僕にとってのピアノの思い出ですが、N響のティンパニストだった父親に小さい頃から厳しくピアノを教えられました。「オーケストラは待ってくれないんだから、つっかえたら、始めから!」って。「音楽はもっと楽しく!」っていつも怒られまして(笑)。

小林:昔は概して先生は恐かったですね。怒って当たり前みたいなものでしたから。

小森:先生は何歳ぐらいからピアノをお始めになったんですか?

小林:覚えていないですねえ。物心ついた頃には弾いていましたね。

小森:お家がそういった環境に?

小林:いや、まったくそういった音楽的環境にはなかったんですよ。父親がアマチュアでピアノが好きだったというぐらいですね。それでもピアノと作曲の真似ごとみたいなことを同時進行でやっておりましたけれど、中学、高校と進むうちに消去法で、自分はどうも作曲家には向いていない、指揮者もやりたいがどうも向いていなさそうだし、それで、ピアノが残ったというわけなんです。音楽はずっと好きでしたけれどね。

小森:僕は、小学校のときコーラス部に入れられて、しょっちゅうNHKのラジオで歌わされたり。ですから僕の場合は合唱のほうが先に身近にありました。小学生のときだけピアノを習っていたんですが、中2で終戦を迎えまして、どっとアメリカのジャズが入って来て、ジャズにすっかり夢中になってしまったんですよ。だからジャズピアノは今でも少し弾けるんです。

小林:あの頃のジャズというのはまさに聞き覚えでしたよね。

小森:そうですね。ベニー・グッドマンとか、テディ・ウィルソンの真似とかしましてね。高校生の頃からは、進駐軍に稼ぎに行っていましたよ。

小林:あの頃はそういう音楽家がたくさんいらっしゃったようですね。進駐軍相手の仕事を通じてピアニストになった、指揮者になった、という方が。

小森:うちの親父のN響でも、ディナーミュージックみたいなことをやれと言われて、進駐軍のキャンプに行きました。箱根の富士屋ホテルにも行きましたよ。あそこも進駐軍が接収していましたから。

小林:ほぼ似たような時期に育って、何もないところから見様見真似で音楽をはじめた、というのは、私たちは共通していますね。

~あちこち間違えて、あそこのパッセージはまったく弾けていないけれども、という演奏が、なんともいえない魅力的な演奏だなっていうときもあるわけです。~(小林)

~「歌がある」っていう演奏ですね。~(小森)

小森:ピアノの先生で印象に残る先生といえば?

小林:それはやはり井口基成先生でしょうね。厳しいことでは天下に聞こえていましたね。いちばん怖い先生でした。私にとってもいちばん厳しくて。これはご自身でもそうおっしゃっていたので間違いないと思いますが、いじめやすかったのかな(笑)。今にして思うと、私の音楽観の最大のバックボーンになっていると思うんですよ。

小森:ものすごいスパルタ式の教え方には功罪両面があったんではないでしょうか。

小林:通じた人には、音楽に対する基本的な姿勢というものがちゃんと受け継がれていると思うんです。ただ一般には、どこまで先生の言われたことが本質的に理解されたかと言えば、問題点がなくはないかなと思いますね。例えば、桐朋の学校が立ち上がって、みんなハノンを一生懸命弾いたわけですよね。技術さえあればなんとかなる、っていう、技術一辺倒といわれた時代がしばらくありましたけれど、それは恐らく「功罪」の「罪」の部分だと思うんです。それは恐らく井口先生の意図されたことではなくて、それを受け継いだ人が意図をちゃんと理解しないでやった結果そうなったんではないかなと思うんです。その結果、技術偏重と言われた時代がかなり長くあったような気がします。

小森:それは昔のN響の演奏もそうだったんではないかな。音楽の気持ちを表す、という部分が二の次になっていたんではないかと思います。中学の頃からずっとN響の定期は必ず聴いていましたが、海外も含めていろいろなオーケストラを聴くようになった今にして思うと、やっぱりあの頃のN響はうまくなかったんだろうなあと思いますね。技術がなければ、っていう意識がみんなにあった。

小林:もちろんN響は当時から日本ではトップクラスのオケでしょうし、それ以外のオケはたぶん推して知るべし、だったと思いますが。

小森:当時の東フィルなんて、恐らく今のアマチュアのほうがよっぽど巧かったでしょうね。ところが先日その東フィルでシューマンの3番を聴いたら、びっくりした。あの当時の東フィルはいったいなんだったんだと驚くぐらい、今の演奏は素晴しいです。ああ、シューマンはこんなことを書いていたんだ、っていうことに気づかされる、そんな演奏でしたよ。ピアノ演奏に関してもそういう経験があります。

小林:このごろ何をもってピアノを上手というのか、ということが、だんだん分からなくなってきたんですよ。つまり技術的に完璧に弾くという意味で言うなら、今のピアニストたちはもう全部クリアしています。何も問題はない。でも、演奏を聴いた後になにか残るものがあるか、っていう意味ではどうかな。コンサート会場を後にして電車に乗って自分の家に帰ってしまったら忘れてしまう、そんな演奏と、あちこち間違えて、あそこのパッセージはまったく弾けていないけれども、という演奏が、なんとも言えない魅力的な演奏だなっていうときもあるわけです。両方を兼ね備えることはもちろんできるんでしょうけれど。

小森:つまり「歌がある」という演奏ですか。

小林:そうですね。そういう面とそれを支える技術の両方が兼ね備えられて、はじめてピアニストとしてバランスのとれたものになる。今、やっとそういう音楽家が増えつつあるのかなと思います。

~あの頃が、新しい作品に触れる、ということがいちばん難しかった時代だったんだろうと思います。まず楽譜がない、ということと、人から楽譜を借りたって、それを写すというのが大変な仕事でしたから。~(小林)

~その頃からでしょうかね、著作権という考え方が日本でも意識されるようになってきたかなと思います。同時代の作品と接するようになったでしょうから。~(小森)

小森:いつごろから「教える」ということをお始めになったんですか?

小林:教える、ということはいちばん最後なんです。若い頃、教えるっていうことは50歳を過ぎないと無理なんじゃないかと思っていました。もちろん教えたことはありますが、30代、40代ではそれは難しいと思いました。だから30代までは演奏活動が主体でしたね。30代の終わりに芸大で教えるようになった頃から、演奏と教えることを両立し始めたと思います。

小森:お若いころはもっぱら演奏家として最前線に立たれていたわけですね?

小林:まだ学校を卒業したての頃、「二十世紀音楽研究所」というものがありまして。その頃にはまったく知られていなかった、当時の最も前衛的な作曲家、ウェーベルンとかブーレーズ、シュットクハウゼンなど、もちろん今では古典になっていますが、ああいう作曲家を日本に紹介するという活動をやっていました。黛敏郎さんとか諸井誠さんとか、気鋭の作曲家たちが中心になって始めた運動でした。軽井沢の星野温泉で現代音楽祭をやっていましたね。吉田秀和さんが所長、それにシュトゥッケン=シュミット(注1)とかも来ていました。

注1:シュトゥッケン=シュミット Stuckenschmidt,Hans Heinz(1901~1988)ドイツの音楽評論家。

小森:ちょうど武満徹さんの《弦楽のためのレクイエム》が賞を取って国際的にセンセーショナルなデビューとなった頃ですね。

小林:そうです。私はやっと学校を卒業した頃でしたが、ともかくそこで新しい曲を弾けそうな学生が駆り集められて、たくさん演奏させられましてね。訳がわからん曲が多いなあ、と思いましたよ。特に、ブーレーズのソナタですとかね。メシアンも今ではすっかりポピュラーな作曲家の一人かもしれませんが、当時はまだまったく訳が分からない、分からないけど、弾いてみるとなかなかいいんじゃないの?という感じはありました。

小森:その頃は新しい作品を演奏する、といっても、楽譜が当時まだ手に入らなかったでしょう。それと同時にその頃から著作権という考え方が日本でも意識されるようになってきたかなと思います。同時代の作品と接するようになったでしょうから。

小林:演奏したら著作権料は支払わねばならない、そういうことを知ったのがその頃で、それまではベートーヴェンとか、著作権とは関係のない音楽ばかり勉強していましたから、こういう問題があるんだということを初めて意識したんですね。当時は新しい作品に触れる、といってもこれがなかなか難しかった時代でした。まず楽譜がない、ということと、人から楽譜を借りても、当時はもちろんコピー機がありませんでしたから、それを写すのが大変な仕事でした。コピー機というのが一般に普及したのはいつ頃なんでしょうかね?

小森:今のようなコピー機が出始めたのは30年ぐらい前でしょうか。でもコピー機が普及して楽譜出版業界に影響を大きく及ぼしたのはここ10年ぐらいでしょうね。その前はコピーといっても青焼きでしたね。ロールペーパーの。昔はコピーといえばガリ版か青焼きでしたからね。青山にある富士フィルムなんかには、芸大の作曲科の学生が朝から行列していたのを思い出しました。大学の生協にコピー機が入って、簡単にコピーできるようになったのは80年代のことですね。コンビニにも。

小林:私も学生の頃、アルバイトで山本直純さんの劇伴の楽譜の写譜をやっていました。なかなか曲ができ上がらなくて、上がってきてもまだインクが乾かないような楽譜でしたね。

小森:あの頃は写譜屋さんがたくさんいましたね。放送局のロビーにも写譜屋さんがずらーっと並んでいて。

小林:そういえば、今はそういう写譜屋さんとは、作曲家はまったく縁がなくなってしまったんですか?

小森:最近は作曲家が自分でパソコンで作ってしまいますからね。でもオーケストラのパート譜はまだ圧倒的に手書きが多いんですよ。コンピュータで浄書もできますが、やっぱりまだソフトも完璧ではなくて、細かい修正作業がいっぱい必要でかえって時間がかかってしまう。手書きのほうがずっと早いんです。それにオーケストラの奏者も手書き譜に慣れていますからね。

小林:それは私の認識不足でした。オケのパート譜はいちばんコンピュータ浄書に向いているような気がしていましたよ。

小森:理屈としては、総譜があって、そこから落としてパート譜をつくっていけばいいから、コンピュータで簡単にできそうな気もするんですが、機械では融通がきかない部分があるんですね。もちろんパソコンのデータでください、という需要も多いですね。楽譜を通り越してMIDIデータでほしいと。

小林:なるほど。用途にあわせて使い分けしているんでしょうけど、楽譜が存在しないという状況もあるんですね。

小森:劇伴なんかは特にそうですね。楽譜でもらってもしょうがない、という世界ですね。

小林:劇伴の場合、もうその場で音を出して完結してしまうんでしょうね。楽譜がちゃんとあって、それを音にするための演奏する人間がいて、その演奏者が楽譜から何を読み取ってどう表現するか。演奏者によってまったく違ったものができる。そういう可能性を求めるような作品に限って楽譜が存在する、ということになってきているんでしょうか。